Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
従軍記者の経験 岡田誠三

岡田誠三は1913年に大阪に生まれ、大阪外国語大学で英語を専攻し、卒業後、朝日新聞に報道記者として入社した。彼は1942年に従軍記者としてニューギニアに派遣され、一年あまりを海外で過ごした。戦争をくぐりぬけ、1995年に亡くなっている。

1942年6月2日に、岡田は記者仲間たちと共にアリゾナ丸に乗船して、広島県の宇品港を出発した。一行は7月20日にラバウルに到着した。彼ともう一人の従軍記者であったサトウは、堀井少将の率いる南海支隊と共に、オーエン・スタンレー山脈を越えてのポートモレスビー侵攻作戦に従軍をした。

岡田は南海支隊とともにニューギニアの海岸に上陸し、部隊と一緒にイスラバに到着したが、この部落では、岡田は日本兵たちと食糧倉庫に押しかけ、オーストラリア軍が退却の際に残していった食料をあさった。そこには、缶詰、バター、チーズ、ミルク、コーンビ-フやアーノット社製のビスケットが残されていた。農家出身の兵士の中には、慣れないオーストラリアの食物を嫌うものもいたが、岡田はビスケットにバターをつけて食べるのが美味と感じた。彼にとって、ビスケットとバターの組み合わせは、英米文明の力の象徴と思えたのである。

岡田は、さらに山中へと兵たちとともに進んだ。エフォギにおいて激しい白兵戦があり、日本軍がエフォギを離れるまでに、数多くの兵士が落伍した。その原因は「戦死や病気、神経衰弱や栄養不足そして失神」にあったという。

9月12日に支隊はイオリバイワ山の山頂に到着し、部隊の兵たちは歓喜の声を上げた。しかし岡田によると、すでに兵士たちの80パーセントは戦死をするか病気になっていたという。食料も弾薬も尽き果ててしまったのだった。

ポートモレスビー攻撃を中止して引き返せという、第8方面軍今村司令官の命令が堀井に届いた。岡田はその命令が届いた際に現場に居合わせたが、その場をを次のように鮮明に描写している。

テントの中の薄いわらの敷物に、年配の司令官が粛然と正座をしていた。彼の表情は憔悴し、白髪が、飯ごうの中蓋に立てられたろうそくの光を反射して輝いていた。参謀の田中中佐は、司令官に向かい合って敷物に座っている。この二つの孤独な影が、汚れてぬれたテントの側面に映っている。血気盛んな大隊長の中には、支隊だけでポートモレスビーに攻め進もうという強い意見もあった。しかし田中参謀は冷静に、たとえすべてうまくいっても、すでに望み薄の状況にある食料の供給ができなければ自殺行為であると説得した。

堀井は当初今村の命令に従いたくなかった、と岡田は書いている。しかし、同じ命令が東京の大本営から届いた時点で、彼はその命令に従う以外にないことと悟った。

岡田と同僚のサトウ記者は、部隊の退却を待たずにすぐに引き返すことに決めた。後退の最中に、進行するオーストラリア軍による激しい追撃があり、頻繁な空襲にも悩まされた。、途中の村や畑のタロイモや他の作物は、すでに進行の際に掘り起こされており、食糧不足はますます深刻になった。ともかく逃げようという気持ちが高まるにつれ、岡田にとって報道記者という仕事は重要なことと思えなくなってしまった。

しかし、岡田は記者としての観察力を全く棄ててしまったわけではない。岡田は『失われた部隊』と題された作品の中で、退却の際にエフォギで目撃した悲惨な場景について描写している。彼の描写は生々しくショッキングであるが、同時に臨場感を持っている。

いつもジャングルの中は夕暮れ時のような光であるが、その中に数知れないほどの兵士の身体が散らばっていた。最近の戦闘で戦死した男たちの身体が、もはや腐り始めているのである。古い衣服を焼いたような、ひどく息の詰まるような臭気がたちこめ嘔吐感を引き起こされそうである。それは死体の臭気だった。ありとあらゆる姿勢のまま腐り始めている人間の身体が散らばっている。何人かはうつ伏せに、何人かは仰向けに、さらに身体を横にしたのもあれば、座ったままの身体もある。さらに奇妙なことに気がついたが、どの身体も腹部に黒い砂の塊のようなものが盛り上がり、光りながらうごめいているのであった。死体のひとつに近づいてみてわかった。それは腹部に発生したウジ虫の山だったのである。身体のどの部分よりもそこからまず腐敗が始まっていたようだった。

ようやく岡田とサトウ両記者が山岳地帯から平地にたどり着くと、そこでは激しい爆撃が待ち構えていた。横山先遣隊がクムシ河にかけた橋は、連合軍飛行機による爆撃によって破壊されてしまい、河を渡るのは困難であった。向こう岸へボートで渡るために、手繰り用のロープをわたしても、連合軍機が機関銃掃射によって切断した。若い日本軍の士官は心から連合軍飛行士の技術に感心し、「まるで空中サーカスを見ているようだ」と感嘆した。

岡田記者たちは、夜間折りたたみ式ボートに6人乗り込み、何とか河を渡ることができた。ようやく二人は、通信担当者と無線機材を残していったソプタの村にほうほうの体でたどり着いた。その村のコーヒー・プランテーションの中に建てられた小屋で、二人は約一ヶ月間体力の回復を待ちながらブナからの脱出の便を待っていた。この間に、病気や飢えに苦しむ兵士たちが、数多く海岸を目指して進んでいくのを目撃した。

ラバウルに戻った岡田は、基地内の兵士の数が大変増加したのに気づくとともに、彼らの最大の関心事はガダルカナルであって、もはや南海支隊の運命には無関心なことに気がついた。

1942年12月上旬に岡田は辻正信参謀をインタビューする機会を得た。記者が堀井少将の攻撃についてどう思うかと尋ねたところ、辻は一言「失敗だった」と吐き出すように言い、「失われた部隊だ」と述べた。岡田は、堀井の指揮した部隊が経験した惨めな結果に対して、すでに軍司令部は関心がないことに気づいた。作戦の影響は、南海支隊の兵士たちがラバウルに移送されてからも続いていた。なぜならば、多くの兵士たちがマラリアや栄養失調や神経症に悩まされていたからである。

ガダルカナルの状況が悪化するにつれて、従軍記者たちの存在は陸軍にとって邪魔になってきた。報道関係者に対しての食料補給がなおざりにされ始めた頃、記者たちがラバウルを離れることが決定された。辻の南海支隊に関した発言は、岡田にとって大きな失望だったのである。

従軍記者たちは、日本に直接戻るのではなくいったんマニラに送られた。戦況の真の状況を、記者たちが一般国民に報道するのを軍部が恐れたためである。彼らは1942年12月にラバウルを出発した。その後、マニラにおいて岡田は南海支隊のブナでの悲劇的な最後を知ったのであった。

田村恵子記


Printed on 05/11/2024 03:44:51 AM